自己懐疑期。本当にこれはチャネリングなの?妄想じゃない?と自問自答する
さあああやってまいりました、自己懐疑期!
私、こんなスピリチュアルを題材にいろんな仕事をしている身でありながら、まだ!「本当は私がやってることってただの妄想ごっこで、それを本気にしてしまった黒歴史生産者なのではなかろうか?」と己を疑う時期が定期的にやってきます。
まさに今!!それです!!いえ〜〜〜い!(ヤケクソ)
この「いやチャネリングとか言っても実際妄想と大差なくねえか?(真顔)」と真剣に悩み出すイベントですが、ご丁寧に忘れた頃にやってくるもんでしてね?最近はなんかもう「あ、また来たわ〜」って心のどこかで思うようになりました。なんだろう、今年も夏が来たなあみたいなノリというか。
そして、この自己懐疑期がくる度にするのは、自問自答です。己を懐疑して高次の存在を疑った状態で健全なチャネリングなどできるはずがないので(そういう精神状態の時はそもそも高次につながりません)、自分の力で立ち直る必要があります。ちなみに、己自身との対話ができないと高次との対話もできないので、基礎の見直しと思って頑張ります。
※ここでの『自分の力で』というのは、人間としての自分が主導で、というニュアンスです。こういう時、高次はどうしてるかというと、静観しつつ、ある程度立ち直った状態にまでなったら合流できるようにスタンバイしてます。
目次
自分の認識を疑うという、恐怖
『この世界は実は存在していなくて、今見ている景色も、今感じている感情も、ただの妄想。触れていると思っているスマホは実は存在していなくて、脳の錯覚でここに在ると思い込んでいるだけ。聞こえている声も、聞こえている気がしているだけで実は誰も何も言っていないのではないか?』______みんな誰しも、一度はこんなことを考えたことがあるのではないでしょうか?え、ない?今はなくても、中学生くらいの年齢の時なら誰もが一度は考えそうなことじゃない?
もし本当は何もないはずの空間を、何らかの脳の錯覚で「そこに人がいる」と自分が認識しているのだとしたら。この問いについて、どう答えれば良いでしょう?「本当にいるのか、実はそこには誰もいないのか」この判断を、一体どうやってすればいいのでしょう?どんな判断も結局自分の脳を通して行われるので、その脳の働きそのものを疑ってしまうと何も判断できないのでは?……って感じの自己懐疑を、毎日毎日朝から晩までずーーーっとしていた時期もありました。その「あるのか?ないのか?」を問う対象とはすなわち、自称高次の存在(のちのハイヤー姉)。
こいつはなんなのか?いるのか?いないのか?存在するのかしないのか、どうやって確かめれば良い?
多分、普通の人ならそんな小難しいこと、ちょっと考えたら「あ〜あ!バカなこと考えてないで目の前の仕事しよ!」って気持ちを切り替えられるでしょう。私は残念ながらそういう器用さがなかったのでどっぷり浸かっていましたが。ただ、高次の存在を脳で、直感的感覚で認識している人なら、この問題は必修科目なのではないでしょうか。というか、接していればどうやっても避けて通れない問題な気がします。
今の私が抱える問いは「自分が提供しているサービス”霊視カウンセリング”で、本当に霊視できているのか」。
でね?
もうね、あまりにも同じこと自問自答しすぎて「あ、またこれだ笑」って感じになってきたので、ここらで一つ記事にしちゃうっ!
『問え。問うことで答えに辿り着く』
さて、自問自答スタートです。
ここから先は、私が二手に分かれて自問自答をしています。最初に話し出した方を「問」、その後に続いて話し出した方を「応」とします。中身はどっちも私自身ですので、一人芝居状態です。
問:最初に話し出した方
応:それに応答する方
自問自答、第1フェーズ
問「てかさー、何回も自問自答して結局『自分がやってることは問題ない』の結論に着地してるじゃない?それってもはや結論ありきで自問自答してるようなものになってない?違和感が浮かんでくるたびにそれを説得で封じるのって不健全だよね?」
応「わー初っ端から抉ってくる〜。確認するけど、こういう時はどうやって自問自答を始めれば良いんだっけ?」
問「あ、そうだった。まずは定義確認から。使っている言葉の定義を改めて確認して、より具体的にしていく作業から始める」
応「そうだね。じゃあ、自分の中の定義を確認しようか。違和感を説得で封じている、というのは、具体的にどういう状態を言ってる?」
問「んー、違和感を無理やり解消する感じ?強制的に納得させる感じと言うか、答えを誘導してる感じ。ちょっと洗脳っぽい」
応「ふむ。じゃあ、自分はそれが洗脳なのかそうでないのかを、どうやって判別する?洗脳されていたらそもそも健全に判断できないでしょ?」
問「自分がどういう状態であれ、一人では判断できないってことになるね。他人の認識を借りるしかない」
応「それなら、他人の認識も借りよう」
問「でも、他人が正しいかどうかも、確証はない。だって正しいかどうかを判断するのは結局自分だから」
応「確証はないね。というか、絶対的に正しいことなんてこの世にない。それなら、複数の事実から「確からしい」ことを導き出すのが限界だね。定義確認、”確からしい”とは「現時点でいろんな情報と可能性を総合的に考察した結果、この説が有力であるとして差し支えない」って意味ね」
問「”確からしい”……悪いんだけどそれってさ、つまり自分に自信がなくて『これだ』と言い切れないことを正当化してるだけでしょ?詭弁じゃない?」
応「『これこそが絶対的に正しいことであり、真実』と断定する方がよほど危険だと思うけど?」
問「それは論点のすり替え。その論法は私には通用しないよ。例えば、色素が赤い色をしているリンゴを見て「このリンゴは赤い」と言うのは、事実として明らか。もしこれを青いと言う人がいたとして、それを『そう言う視点もあるね』とはならない。あおいと表現したのは『若々しい』みたいなニュアンスでした、って頑張って解釈したとしても不自然さは残る」
(脳裏で『物質世界に適用される特殊条件』の概念を思い出す)
応「それは『物質世界に適用される特殊条件』の話だね。今話しているのは物質の状態のことじゃなくて、主観による判断の話でしょ。『このリンゴは美味しい』みたいな。美味しく感じるかどうかは主観の問題。脳内で起こる妄想だかなんだか分からない『何か』も、自分の内側で起こること」
問「ああそうやって!そうやって私の脳が、勝手に辻褄が合うよう論を組み立ててるだけでしょ?後出しでそんな条件?を出してさ」
応「いや、後出しになったのは悪かったよ……」
問「ていうか、あなた回答側じゃないの?私が先に質問したんだけど?何も答えてないじゃない」
応「だって最初にそっちが言ったんだよ、説得されたくないって……。だからこっちは聞き役になりながら、質問してるんだよ。ちょっと役割が逆転しちゃってるけどさ」
問「それは…そうか。うん」
応「ね」
【補足解説】
途中で脳裏に「〇〇の概念」を思い出す、というのが挟まっていますが、実はこれがうちの高次からの補助だったりします。自分自身で自問自答している際に、意識の裏側にうっすら概念の説明が入ってきています。
問「他人の認識を借りるって話に戻るけど、_____どうやって借りれば良いんだろう?自分の内側のことなのに?」
応「え、それ、こっちが答えていいの?答えありきで誘導してるとか言わない?」
問「ああそうか、誘導になっちゃまずいからな…。じゃあ、こっちが提案する。他人の認識と自分の認識が一致するかどうかをみて判断するのはどう?」
応「いいよ。じゃあそのように手配しとく」
問「____『いいよ』?何、その『いいよ』って」
応「だから、そういう方向でいいよ、って。他人の認識を借りるんでしょ?」
問「______ん?」
応「だって自分の脳内で起きてることだけで判断なんてできないんでしょ?現実に起こった事実を見てね」
問「_____いやいやいや待て待て待て、ん?私は今自問自答してたはずだよね?あなたハイヤー姉だね?いつの間に来てたの?」
応「口調を変えねば気付かぬか?そなたの精神状態が落ち着いてきたら自然と私も問答の中に入ることができる。そういうものであろう?そなたの自問自答とは」
【補足解説】
ブログでは、わかりやすいように斜め字にして口調を変えて描写していますが、自問自答の際に自分の精神が安定してきて前向きに検討する姿勢になると、こうして途中からハイヤーが混ざってくることがよくあります。
しかしながら、私はこの!会話に混ざってくる こ い つ を!妄想ではないかと言いたいのです。ここでハイヤー姉が出てきたところで、それが妄想否かの証明には全く役に立ちません。そのため、ここで私は自問自答を一旦切り上げます。
(場面転換)私と母の会話。
私「___っていうことがあってさあ。これって本当は妄想なんじゃないかなって、また疑う時期が来ちゃった」
母「ああ、いつもの笑」
私「お母さんもたまになるけど、私もなるんだよねえ。ごめん、聞き役になってもらえる?」
母「いいよ笑 自己懐疑期ねえ。何かそうなるきっかけとかあったの?」
私「うん。きっかけは明確にある。別のスピリチュアル系の人の動画を見たの。珍しく。普段そういうの見ないし見る必要も特にないからと思ってるんだけど、今回に限ってなんとなく見ちゃってさ。そしたら、その人が言ってる霊視と私がやってる霊視、なんかやり方が違ってて」
母「うん」
私「でも、霊視ってそもそもやり方は複数あるし、霊視という言葉で括られているだけで種類は多いしどこの次元に繋がるかとか、どういう経路で霊視を繋ぐかも枝分かれしてるし」
母「そうだね」
私「自分とは違うやり方の人を見て、その人がものすごく『これが正解です』っていうスタンスでいたから自信を無くした……のかも」
母「その人と比較しちゃったんだ?」
私「そうね。比較した」
母「じゃあ、箱白はどういうやり方をしてるの?」
私「私は、こういうやり方でこういうふうにして(以下、説明)」
母「うん。そのやり方、別のスピリチュアル系の発信者の〇〇さんも同じこと言ってたし、〇〇さんも似たようなこと言ってたよ。動画で見たその人のやり方だけが正解というわけでもないだろうし、別にあなたがやっているそのやり方が間違ってるとかそういう話ではないんじゃない?」
私「うーん。そうかも?」
自問自答、第2フェーズ
問「よく考えたら、きっかけがあったとは言っても、その動画自体に不安になる要素ってないよな?じゃあ、どうして私は不安になったんだろう?別に他の人の情報を見ても、自分のやってることに自信があれば揺らぐことなんてないはずなのに」
応「つまり、何かに自信がないってことじゃない?」
問「自信がないのか……自信をなくす出来事……、そういえば最近、『本当に霊視ができていれば、もっと上手に霊視カウンセリングができるんじゃないかな』って思うことがある」
応「定義確認。上手にできる、とはどのような状態を指す?」
問「上手に……まず、相手の高次の意図に沿った結果になることと、依頼者の人間の目線から納得のいく時間になること、かな。双方にとって満足いく立ち回りができること…?」
応「自分はそれが、できていないと感じている?」
問「できていない……完全にできていなってわけではないけど、改善できる余地はたくさんあると思う。自分に足りないものがある気がする」
応「それは霊視の問題?それとも伝え方の問題?」
問「どっちも。でも霊視の精度が高ければもっと的確に伝えられるんじゃないかな、と思うことがある。くやしい」
応「それは向上欲であって霊視そのものを疑う方向に向かうのは、逃避じゃない?」
問「うっ」
応「あとこれ忘れてたんだけど、依頼を受けるようになって2年目だからね私…?ぜんぜんまだ新人の域だからね?」
問「でもさあ、プロ意識は持たないとダメでしょ。そこは。仕事なんだから」
____________意見が並行戦になったところで、一旦自問自答を切り上げます。自問自答のポイントは、並行戦になってそれ以上内容が進まなくなったらさっさと切り上げることです。なぜならこれが、次は現実が動くターンですよ、という合図だから。
(場面転換)現実の世界で、ふと目にした情報。
『向上心を持つことと、己の未熟さを許すことは両立できる』という趣旨のポストがXに流れてきた。
自問自答、第3フェーズ
問「うぎゃあああああああああ」(←刺さってる)
応「バランス、バランス。プロ意識は持ってもいいけど、現状の自分に不寛容だとチャネリングは繋がるもんも繋がらんて。向上心と未熟は両立するもんじゃん?」
問「それは〜〜そうだけど〜〜〜」
応「ていうか、霊視カウンセリングの場でもそれ、よく言ってるよね。まあ、言ってるのはご依頼者さんの守護さんだけど」
(脳裏で
『ブーメラン現象。他者と相対する時、相手にとって必要な言葉は鏡写しのように自分にも必要な言葉であることがある』の概念を思い出す)
問「そ、そうだったかもしれん。ちょっと記憶が朧げだけど」※注釈:箱白は霊視カウンセリングで得た情報のほとんどを忘れます
応「それに普段からSNSとかでもそういう趣旨のこと言ってるでしょ、自分で」
問「い、言ってた気がする。表現はそのままじゃなくても、そういう趣旨のこと自分なら言いかねない。言ってても不思議じゃない」
応「これは霊視とかスピとか関係なくどんな分野でも言えることだけど、発信者自身が発言の内容を実践してないと説得力ないよね」
問「うん、それは、そう思う……心から同意……」
(仕切り直し)この時の自問自答は「応」に同意して終わったが、また再び違和感を覚えたので自問自答を再開。
自問自答、第4フェーズ
問「さっきの話だけど、でもプロが仕事の場にそれを持ち込むのはどうかと思うよ?ある程度の未熟さはしょうがないとはいえ、最低限、質は保つべきだと思う。自分の未熟を認めるなら尚更」
応「……最低限、ね?それってどういうラインのこと言ってる?」
問「うーん、言語化難しいな。そういえば、こういう仕事をする以前に、知り合いに『占星術で占う練習をしてるので見せてください』って言われて、練習に付き合ったことがあってさ。その時は、ここの位置に星があるとどういう意味、とかそういうのを教えてもらったんだけど、ただ知識を伝えられただけで終わってしまって。これだとサービスとしてのセッションにはならないなあ、とは思ったことはある。……まあ、これは占いだから霊視とはちょっと分野違いなんだけど」
応「サービスとして成立するには何が必要かが、その体験からなんとなく察した?」
問「そう、かも」
応「何が必要だと思うか、言える?」
問「もちろん知識とか技術があるのは前提なんだけど、それをどう伝えるかとか、相手は何を知りたくて聞いてるのかとか、そういう人間の目線があれば、人間向けのサービスとして成り立つなって思った。_____あれ?やっぱりこれって私の伝え方とかお客様視点になるとか、そういう話なのかな…?霊視の精度が低いかもって思うのは、やっぱり逃げなのかな?」
応「霊視の技術を心配してるなら、うん、これまでのお客様レビューでも見返したら?」
自問自答、最終フェーズ
(場面切り替え)そういや、他の人からの感想をもらうことで「今のところ霊視できているのは確からしい」と判断してきたよなあ、と思い出してから、自問自答最終フェーズです。
応「高次がそなたに何を要求するか。なぜあなたをこの仕事に就くことを高次は反対せずに『さもありなん』としたのか。思い出せ、すでにそなたには伝えてあることじゃ」
問「う……第一に言語力、第二に人間目線を維持したいと思う性格。第三に、……それが苦痛にならないこと」
応「高次はそなたに、人間であることを求める。それは人間の視点からでなくば分からぬ感情の機微や現実との向き合い方があるからに他ならぬ」
問「であれば、うーん、やっぱり人間的な側面からの対応のバリエーションを磨く、とかそっちの方向性なのかな」
応「_____苦い気持ちになったか?」
問「うん。自分に足りていないことが浮き彫りになったってことだし」
(脳裏で、一冊のとある本を思い出す)
応「良いのではないか?それで。ちなみに、私は今後のそなたに必要な本をすでに提示している。そしてそなたは『なんとなく必要っぽいかも』と思って購入したまま本棚に直行して眠っておるわ。己に必要であると実感が追いついたのなら、読むが良い」
______そうだ、買ったわ。本屋さんで「なんかこれよさそう!」って思って買った本があるのですが、読まずに放置してました。よし、読むか。
あーーなんかやっぱり似たような着地になりそうだな〜という予感がしつつも、この予感に流されるわけにはいかない、と思うのが私の性格です。疑うなら、気が済むまで疑いきる!しつこいほどにな!!
問「なんか着地しそうになったけど、でもさぁ?こうやって何度も何度も不安になるのって、やっぱりおかしいんじゃない?定期的に不安になるのは、自分を守護する“本物の高次の存在”からの警告なんじゃない?道誤ってるよっていうサインが不安として表面化してるんじゃないの?って思ったりする」
応「”本物”、ねえ……まあいいや、じゃあケース別で考えたら?はい、もし高次の存在とかじゃなくて全部妄想でしたオチの場合。どうする?」
問「重大事案だね。あんまりリアルに考えると胃が痛くなりそうだけど……まずは一旦、霊視の受付を停止して新規の仕事をストップする。霊視カウンセリングしたお客様には事情説明と返金対応の案内を送る。……返金分の貯金あるかな、わかんないけど無かったら親に借金するしかないな……。で、同人誌も返金対応を考えるしかないな……これも事情説明もする。って感じで、今までのお客様への事情説明と、返金対応のご案内を用意する。これは私がこの仕事を始める時に自分で決めた責任の取り方でもあるから、そこは、うん、が、がんばる」
応「へえ、おおごと!普通にアカウント消して蒸発とか考えたりしないの?」
問「そうやって逃げられるもんなら逃げちゃいたいのが本音だけどね。でも仮にそこで逃げたとしても、今度は罪悪感で潰れる未来しか見えない。そんなの私が私をゆるせない」
応「ふふふ、自分で自分をゆるすことは必要なことではなかったか?未熟さをゆるすことと矛盾しておらぬか?」
問「でた〜〜〜悪霊ムーブ。……あっこれハイヤー姉だな?おい、見抜いてるぞ」
応「私を”本物”でなく悪霊だか気の迷いとするなら、論破してみれば良かろう!ほほほ!」
問「あのさ、未熟をゆるすのと責任から逃げるのって違うから。ゆるすって、その現実を受け入れるってことだから。逃げたらむしろ真逆じゃん。逃げないで責任取ることが、自分の未熟をゆるすってことだと思う。あと、そこまでして責任取ればもう二度と高次(笑)なんかとやりとりしたいとも思わないだろうし、妄想癖(笑)も治ると思う」
応「じゃあ次。ケース別で、『昔は霊視できてたけど、今は何らかの事情でできなくなった、あるいは不安定になって仕事して成立しなくなった』。これは?」
問「嫌な想定だけどすごくリアル……というかそれ、直近でもすごく考えたことだ。妊娠したら霊視って繋がらなくなるんじゃね?みたいなね」
応「はい、対応は?」
問「まずは新規の仕事の受付停止。そこから、全体に向けて事情説明して今後の受付再開が未定だと言うか、もしくは引退か……何らかの事情でできなくなった場合、できなくなったタイミングまで遡って返金対応を考えるのが現実的かな。でもそのタイミングでは自分ではできなくなっているかどうかの判断ってできないだろうから、やっぱり他の人の認識を借りて総合的に見て判断、って形になると思う」
応「まあ、それが妥当だろうね。ここまで考えておいてアレだけど、まずそもそも、自分の頭の中のそれが妄想か高次のものの意志かって、どうやって判別するんだっけ?」
問「一言で説明するのは難しいし一概には言えないと言うのは前提だけど、最終的には頭の中のことと現実の出来事がリンクしていて矛盾がなく一貫してるってことかな?いわゆるシンクロニシティというか……霊視の場だと、自分の口から出た言葉にどういう含みがのか私にはわからなくても、依頼者には含みの部分まで伝わっているから会話が成立している、みたいな感じになる。で、依頼者に後から『実は言ってなかったんですけど、こういう背景があって』みたいに事情を聞いて、私は『へえ〜〜〜そうなんだ〜〜〜』ってなる」
応「うん。ちなみにそれ、SNSで『高次と繋がってるとこういうふうになりがち』って投稿したことあるよね?反応、どうだった?他の人の認識は?」
問「______わかりみが深いって共感された。同業者に」
応「ね」
問「うん……」
応「ではついでに。そなたが何故、繰り返し不安になり自己懐疑に陥るのか。その理由を我ら高次の目線から伝えても良いか?」
問「_____どうぞ」
高次の見解。なぜ、自己懐疑期があるのか
ハイヤー姉「なぜ自己懐疑に陥るのか?それこそが、人間らしさであるからじゃ。高次は、そなたに人であることを求めている。
そなたは人間である。わざわざ不便な肉体を纏ってわざわざ視界の狭い目線で生きておる。わざわざ!未来の見えぬ不便さ、肉体を纏うことの億劫さ、視界が狭いが故の疑心、遥か高みを見上げたときに身に浴びる、圧倒的な絶望感とその先に感じる希望。それらがあってこそ、人は己を探究し世界を探究し、そこで新しいものと出会い感動し、愛の深さを知る。そなたが人の目線を忘れてしまえば、わざわざ人間生活をしている理由がなくなるではないか。物事を俯瞰したまま人の目線に降りれなくなんて、悲しいではないか。そのような勿体無いこと、させるものか。人と共にあれ。そのためには、人の目線であり続ける必要がある。人は忘れる生き物じゃ、新鮮さがなければ経験はやがて知識になり、知識はやがて実感を失う。人と共にあれ、そして人として生きよ。私はそなたの人生が豊かになることを願う」※要約
問「く、くっそ〜〜!納得する!そう言われると!もう納得するしかない!!確かに、高次と人間の大きな違いって、この疑心があるかないかだよね。わかる。これって人間特有の感情というか、状態?だもんね」
ハイヤー姉「うむ。初手でこれ言ったら会話が終わるであろう。ゆえに、最後に出した」
問「はい……」
そして最後に、「出来事」がくる
さて、ひととおり自問自答を終えて。
なんか最終的にハイヤー姉が出てきましたが、思い出してください、私はその!脳内でそうやって話してるそ い つ を!疑っているんですよ。なんか最終的にいい感じに言いくるめられてない?大丈夫、私?と、まだ自己懐疑する余地は残っています。あんなに素敵なこと言われたのに、まだ疑う。なぜか?
私「あのねぇ、妄想だったら自分が言われたいことを言うに決まってるでしょ!しっかりしろ私!」
____そう。自分の中の願望や理想を、自分で勝手に作り出して自問自答の相手に投影している可能性があるわけです。繰り返しますが、気が済むまで疑いきるのが私のモットーです。
ハイヤー姉「あーはいはい。わかっておるわ。私がそなたの脳内で言うことは一つ。現実をみよ。起こった事実を見るのじゃ」
そんな感じで、大体2~3日くらいでしょうか。「ある出来事」が起こります。
『事実をみよ』
そのある出来事とは、どういうものなのか?それは、自分の頭の中の認識と解釈と類似することを第三者から伝えられること。そして、その妄想らしき何かと現実が、綿密にリンクしていると分かる出来事です。簡単に言うなら、出来すぎた偶然、って感じ?
具体的にどのような出来事だったのかはあまりにプライベートな話なので書けませんが、ポイントは自分がいかように解釈しようとも、確実に、それは目の前で起こった事実であり、否定しようがなく、第三者(自分以外の誰か)が関与していること。ただし超常的な現象ではなく、あくまで日常の中の出来事です。
その出来事と頭の中の解釈と会話の強い関連性から、「いや…、この自分の頭の中のあれこれが完全な妄想であると断じるのは、ちょっと無理がないか?」と思えるほどに。偶然起きた出来事かもしれないけど、それがあまりにもピンポイントで的確だったり、何度も繰り返し偶然が重なったり。たまたまかもしれないけど、たまたまと言い切るにはちょっと無理があるような…?
で、さらに。
ここでは自分で解釈するのに加えて、第三者からも起こった出来事を解釈してもらい、それを直接伝えてもらいます。つまり他人から見ても「それは高次と繋がってるってことだと思うよ……?」と判断されるということです。そこではじめて、「今の時点で、これが高次の意思であると判断することは妥当であると考えて差し支えない。これは確からしい」という結論に着地します。こうして、自己懐疑期を抜けていくって感じです。
ま、今の時点では、ってところには変わりないんですがね。なので、自己懐疑期を抜けると「とりあえず、確からしい」が更新される感じです。次回の更新の時期になったら、また自己懐疑期が来ます笑
懐疑する度に自問自答し、自答の末に自分の思想と世界観の土台を確立したところで、現実の世界で「出来事」が起こる。事実として。
ハイヤー姉は一貫して、初期の頃からずっと、私にこう言っていました。
ハイヤー姉「私の存在を信じよとは言わぬ。人の心を強制することは如何なる存在にも許されぬ。故に、私はそなたに『知れ』と言おう。そなたは探究せよ。問い続けよ。そして問うことの喜びを知るが良い。私はそなたが生きる現実の世界の、現実の出来事として意思を示そう。さあ、目を逸らさず、背けず、正面から、まっすぐに、眼前にある事実を見よ」
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