スピリチュアルアートってなんだろう。芸術と霊性についての考察
スピリチュアルアートってなんだろう
最初は、スピリチュアル分野とアートを掛け合わせた「何か」を自分の売りにすればいいのでは?と思っていました。
私には会社勤めの経験がありません。
大学卒業してこれまで、個人で仕事をしています。
その過程で学んだのは「仕事とは、自分のできる得意な技術を掛け合わせて作るものである」こと。
自分の得意なことは、イラストを描くこと。
そしてたまたま霊視もできた。
それらを組み合わせれば、自ずと自分にできる仕事のシルエットは見えてきました。
「スピリチュアル×イラスト」。
ということは、私にできることは「スピリチュアルアート」なのではないか?と。
しかし、ここにもんんんんのすごい大きな違和感がありました。
「私の作品は、スピリチュアル的なのか?」
芸術と霊性
自問自答を始めよう
「私の作品にスピリチュアル的な要素はあるのか?」
そう自問しても、割とすぐに答えられます。
ええ、まあそうでしょうね!と。
そこには何も疑う余地はなく、むしろ自信を持ってそう言い切れました。
___自分の作品に霊性がないと考える方が難しい。
それなのに、「では私の作品はスピリチュアルアートなのか?」という問いになると、ちょっと考えてから「うん」になる。
……ここだ。
ここのわずかな「違い」に、何か大きなブロックがある。
作品にスピリチュアル的な要素があることと、「スピリチュアルアート」であること。
この二つの間に、何か決定的な差があるのではないか?
掘り下げ、掘り下げ……
自分の中にある知識の確認
そういえば、芸術に関することで自分の脳内にある情報や価値観は、大学で習った知識が土台になっている。
大学で四年間、美術史を専攻していた時のこと。
そこでは実技的に絵を描くことではなく、絵をはじめとする芸術の歴史を学んでいました。
_____その時、何を学んだ?
特に「芸術」と「霊性」に関する何か……
霊性……「宗教画」。
ああ、そうだ、西洋美術史では主に宗教画もよく勉強した。
キリスト教の聖母マリア像とかね。
習った絵画の多くは、聖書や神話に基づいた作品が多かった。
芸術にとって、霊性は別になにも珍しいことじゃなかった。
いや?もっと時代を遡ると、芸術は元々、霊性ありきのものだった。
絵も、踊りも、音楽も、詩も。
神への奉納物だったり、儀式的な意味合いが強かった。
宗教的な世界観を説明するために使われていた時代も長かったじゃないか。
それが時代を経て、芸術は神聖なものから人間的なものに変わっていった。
ていうか、芸術が人間のためのものになったのは、芸術史を紐解けば実は最近の話だ。
価値観の確認
そうだった。
そういうことを大学で習っていたんだった。
何かを創作する行為そのものが、スピリチュアル的な行為であったと言っても過言じゃない。
そんな前提が、自分の中に存在していた。
事実、インスピレーションが降りてくる、なんて芸術の世界ではありふれた話。
むしろ芸術からスピリチュアル要素を抜き取れ、と言われる方が難しい。
逆にインスピレーションが全くない芸術作品は、むしろそれはそれで一つの特徴として売りになりそうでもある気がする。
人の手によって創造されるものになら、どんなものにもエネルギーは宿る、はず。
元々、創作とはそういう行為なんだから。
言葉でくくること
じゃあ、疑いようもなく自分の作品はスピリチュアル的である。
それでいいじゃないか?
何をそんなに、自分は違和感を覚えるんだろう。
____スピリチュアルアート、という言葉?
言葉によって表現することで、何か違いが生まれる?
……あーーーーそれだ!
「スピリチュアル」の枕詞を付けることで逆説的に「スピリチュアル的でないアートがある」と匂わせることに繋がる。
ここか?!違和感の正体は!
元々芸術には霊性が宿るものだと思っているのに、あえて「スピリチュアル」を名前につけることであたかも「スピリチュアル的でないアートがある」ように聞こえる。
そう錯覚を起こすってことか。
「スピリチュアルアート」とは何か?
であれば?
スピリチュアルアートの定義を自分の中でもう一度練り直す必要がある。
「霊性、エネルギーをもつこと」を定義にすると、自分の中に反論が生まれるんだ、「普通の芸術作品だって標準仕様で霊性はあるじゃないか」って。
最初から、霊性ありきで芸術は成り立っているんだから。
それなら、スピリチュアルアートとはなんだろう…?
作品にスピリチュアル要素があるかないか?はもはや問題にはならない。
なら、他の要素で差がつくことになる。
____他の要素?
…とりあえず芸術の構成要素でも挙げていくか。
表現物であること、知覚できること、鑑賞者がいること、あとなんだろう……
……鑑賞者?
現代アートの世界は特に、鑑賞者に作品の解釈を委ねることがある。
自由に、心のままに感じ取ってほしい、と。
鑑賞者に、解釈を、委ねる……
あ、
ああ、それなら逆に、
鑑賞者に「こんな風に見てほしい」と誘導することだって、できる。
解釈や鑑賞する際の姿勢を、こちらから意図することだって、できる。
…鑑賞者が「この作品からエネルギーが受け取れる」と認識させることも、できるわけだ。
鑑賞者が、エネルギーを受け取ろうとする意図を持って作品と対峙することを、意図する…?
_____あーーーーーーーーーー(察し)
…ここだわ。
それでもこれは「スピリチュアルアート」である
さて、思考をまとめよう。
どんな作品にも霊性は宿る。
それでも作品をあえて「スピリチュアルアート」だと称することに、意味があるとしたら?
それは作品そのものの質が問題になるのではなく、その作品がエネルギーワークであると他者にはっきり認識させること、が目的になるのかもしれない。
エネルギーは、受け取ろうと思わないとなかなか感じにくいものだから。
普段、人が何か絵や芸術作品を鑑賞するときわざわざ「そこに込められたエネルギーを受け取ろう」と意識する人は少数派だろう。
けれど文字によって、カテゴリとして、あえて「これはスピリチュアルである」と強調することで、鑑賞者に対してエネルギーを受け取る姿勢になってねーと促せるわけだ。
スピリチュアルアートとその作品を呼称するとき、それは「エネルギーを宿す依代」になる。
つまり作品そのものはあくまで手段になり、そこに宿るエネルギーが本質的な主役、ということになる。
エネルギーが主、絵はそれを物質的に表現した依代だから、従。
こ、ここだーーー!
私が感じてた違和感!これだよこれ!!!!
ーーーじゃあ、私は、果たしてそれを望むのだろうか?
自分の作品を、依代とすることを望むのか?
エネルギーを乗せる依代
べ、別に望んでない…っ!依代にしたいとは思わん!
でも結果的に依代になるのが嫌というわけでもない!!
鑑賞者がそこからエネルギーを受け取るか否か?はあくまで鑑賞者側の問題。
別にエネルギーを受け取ってもいいし実際受け取ろうと思えば受け取れるとは思う。(実際自分もそうやって使ってるし)
けど、自分の作品のことを自ら「これは依代です」って言うのは嫌だ!!
___いや、ね?
高次のものから直に発注を受けて「エネルギーの依代としての絵を描いてください」って依頼されるなら、ただのクライアントワークとしてやればいい。
でも自分の作品を自ら「エネルギーを運ぶ媒体」にして「エネルギーがメインコンテンツです」みたいにするのは、気に入らない。
うん、もし依代としてのイラストが欲しいなら高次側から依頼してくれ。
そして日本円でお支払いください。ご依頼お待ちしております(?)。
作品と相対した時、「そこから自分は何かを感じとろう」と鑑賞者の意識を向かせるための「スピリチュアル」という枕詞。
わざわざ枕詞を使わなくたって、エネルギーは存在する。
それこそどんな作品にも。
だってエネルギーは万物に宿るものだから。
そしてそれが人の手によって作られた創造性のあるものであれば尚更。
「これはスピリチュアルアートか?否か?」は、あくまで鑑賞者のための言葉。
この結論に至った時、とてもスッキリしました。
「スピリチュアルアート」を描きたいと思う一方でどこか心に引っ掛かりを感じていたので。
どんな作品にもエネルギーはある。それが意図されていても、いなくても。
それを踏まえた上で、私は自分のスタンスを決めようと思います。
「これはイラスト作品。エネルギーを受け取りたい場合は、受け取ることも可能」
自分の中のブロックへせまる
自分のスタンスはなんとなく固めた。
しかし、なぜ自分は「依代」を作ることに抵抗があったのか?
___いや、正確に言えば依代にされてもいいけど、自分から「スピリチュアルアートです」と説明することにどうして抵抗があったんだろう?
…まだ。
まだまだ浅い。
さらに深掘りできる。
もっと深くまで。
ここからは、次のテーマに移行します。
自己内観はまだまだ続く。
関連情報
アーティスト / スピリチュアルカウンセラー|箱白
霊視、チャネリングを通してスピリチュアルと宇宙の法則を探究をしている【箱白】の公式サイトです。
スピリチュアル的背景を土台にしたアートやイラストも制作したり、霊視カウンセリングもやってたり。
ハイヤーセルフや守護霊様などと繋がる中でメッセージをお伝えしたり、高次の方のビジュアライズもいたします。
ご自身の人生や認識する世界の解釈にお役立てください。
「必要なものに、必要な分だけ、過不足なく、絶対に存在する」