俯瞰視点と人間視点のギャップを埋めるために頑張ったはなし
霊視の仕事をするにあたって、個人的に大事にしていることを書いてみようと思います。
※チャネリングや高次との対話を最近し始めた方向けの内容かもしれません。
最近全然ブログを書けていないので、リハビリのつもりで。
題して、
目次
人間視点と俯瞰視点のギャップを埋めるために
人間視点と俯瞰視点ってかーーなりギャップがある。
チャネリングやら高次の存在との対話が日常化すると、高確率で出てくる弊害「人間視点と俯瞰視点とのギャップで悩む」があると思っています。
俯瞰視点になりすぎると「こいつ正気か?」ってくらい人の感情に鈍感になるので、悪気なく他人を傷つけるアクシデントにも繋がりかねないんですよね。自動チャネリング状態になったことがある人なら、きっと共感していただけるかと思います。
この状態で、他者と関わるのは非常にリスキーです。
たとえば自分が困難の真っ只中にいるときに「それもいい経験になる!」とか言われたらブチギレますよね。
「はあ?お前に何がわかるの?」って。ええ、私もブチギレたことあります、自分の高次に対して。
俯瞰目線だけになるとなんか上から目線でそれっぽいこと言ってるだけって印象になる。これがすごく厄介。
言ってることは間違ってないけど、伝えることで逆に相手を傷つけてしまいます。正論で殴るのと似ているかもしれません。
たとえその言葉にどんな含意があったとしても、伝わらなければそれまでです。その含意を読み取れないのは相手のせいじゃない。自分の表現力の問題だと思っています。
自我によって口を閉ざし、審議にかける
自動チャネリングをしていると、自分の意識は薄くなってなんか知らんけど口からばーーーっと言葉が出てくる状態になります。
自分はそれをうっすらと「はーん、そうなんだー」って思いながら聞いてるんですが、自動チャネリング状態になっているときに「これは言わない」と自分の判断で口を閉じるスキルを優先的に身につけました。
蛇口の水が出っ放しになってるのを止めるように。言いたくないことが口から出そうだなと予期した瞬間に、その時だけ「ちょっと待った!」をかける。その練習をめっちゃしました。
必殺技「ちょっと待ったあああ!」
この「ちょっと待った」はこれから言おうとする内容を審議にかけるための合図、という位置付けです。
箱白の人間としての感覚を高次に対して改めて説明し、「人間目線だと、こういうふうに聞こえるリスクがある言葉です。ほんっっっとうに伝える気???」と物申します。それに対して「それでも!伝えなくてはならないです!」と回答が来たら、箱白なりに頑張って言葉を探しながら伝えます。
ハイヤー姉「私は、この『ちょっと待った』があるのは望ましいと思うておる。極端なはなし、ちょっと待ったが要らぬのなら、夢枕にでも立ってメッセージを直に伝えれば良い。それをせぬのは、人間目線を知らぬせいでいたずらに傷つけてしまうリスクを自覚しているからじゃ」
チャネリング中の自我の濃度の調整
この「ちょっと待った」ができるようになるには、自動チャネリング中でも自我の濃度を、ある程度濃く保つ必要がありました。別の言い方をすると、自分の魂の割合を一定の数値でキープする必要がありました。
自我も魂も、個で数えるよりも割合で量るように捉えるとわかりやすいなと思います。人間としての私の魂60%、高次のハイヤーセルフの魂40%、みたいに。
さて、自我濃度が薄すぎると体を思い通りに動かしにくくなります。お人形状態です。口を閉じようとしても閉じられない。すると、勝手にチャネリングで得た言葉が口から垂れ流しになり、先ほどのような「おめえに何がわかるんだ!」って思っちゃうような言葉もそのまま出てきちゃうわけです。
問題ない言葉はそのまま口から流れ出てもいいけど、「これ言ったらやばくないか?」って思う発言が口から出そうになったら、その寸前で止めたい。
しかし一方で、人間としての自分の自我が濃すぎたらそもそもチャネリング状態になれません。
絶妙に自我の濃度が薄すぎず濃すぎず……「ちょっと待った」ができる程度の状態を維持するには、
…。
場慣れ!!!!
場慣れするしかない!!!!
やっていくうちに慣れろ!!!!
練習あるのみ!!!!!
ということで、練習しました。体当たり!!!脳筋!!!
こればかりは、自分の感覚で覚えるしかなかったです。理屈じゃねえ!やって覚えろ!!!
まず自動チャネリング状態になってから、自我を少しずつ濃くしていってちょうどいいところでキープする。ちなみにこのキープができると、高次との対話を自我を保ったままできるようになります。
この練習期間は当然仕事として霊視はしていないので、全てプライベートでやってました。私の場合は、母もスピリチュアル的なことがわかる人だったので母を相手に霊視していました。
これは後々上から聞いたことですが、どうやら私の練習相手として母がいたのは、お互いの高次同士で合意を結んだ上で提携していた背景があったそうです。
とは言っても、私や母の人間目線からはまさか母が練習相手として霊視を受けていた自覚はなかったので、100%本番のつもりでやってましたが。この練習期間が終わると、私は母のことをほとんど霊視できなくなりました。
ハイヤー姉「本来、家族やごく親しい相手を霊視するのは推奨されぬこと。己の課題や人生のネタバレ情報を家族が持っている可能性があるのでな。そなたの練習には、そなたの人生に影響のない範囲の霊視のみができるよう調整しておったゆえに、特例とした」
結局、信念だよねえ
一度高次の感覚に振り切ったことがあると、濃度を中間で保つのってものすごく心理的な難易度が高くなるように感じます。
なぜなら完全に高次の感覚に振り切っちゃうほうが楽なんです。圧倒的に、楽です。
人間の感覚でいるより高次の感覚のほうが楽(退屈にはなるけど)。わざわざ意図的に人間視点に戻るのは、もしかしたら奇特なのかもしれません。
でもね、
私の原体験として「人間の苦しみを当事者目線で理解できない高次の存在に、人間を救えるわけないよね?」があります。
かつて俯瞰目線から救いの手を差し伸べられて、バチくそにキレたことがあったので。というか「それもいずれ良い経験になるよ、全てのことには意味があるんだから」みたいなことを言われて「こいつダメだ……」と返って絶望ことが忘れられなくて。
私はそうはならない。なりたくない、なってたまるか。という、そりゃもう強い強い決意と信念がありました。
あれだけは嫌だ!!!!死んでも嫌だ!!!!かつて私を絶望させたものになんて、なりたくない!
えーー、
____これを読んでくださる方の中には「それって執着じゃない?」とお思いの方もいらっしゃることでしょう。
はい、執着です。お察しの通り!
しかしながら、私はこの執着にプライドを持っております。この執着を得るためにこれまでの苦しみがあったと言っても過言ではない。そう自負していますので、とりあえずしばらくはこの執着と共に生きようかなと思っています。
俯瞰視点と人間視点を並べて見る視点
でね。
高次と人間の感覚を同時に持つということは、自分の中に葛藤と矛盾を抱えること。それを是とする、ってことなんですよねえ。慣れないうちはそりゃもう綱引き状態。片方に振れたら片方が足りなくなる。
その葛藤を丸ごと「よし」として人間視点と高次視点を同時に存在させるためには、もうひとつ上の階層に意識を置く必要があります。
つまりこれって、高次視点さえ俯瞰して見下ろす視点を獲得するってこと…とも言えるかも?
でも、俯瞰と人間の両方が共存する状態を保つにはどうしても。どうしてもその視点が必要でした。
うん。必要なら、獲得するしかないよねっっ!
で。
そうしたら最終的に、また人間視点に戻ってきました。するとあーら不思議!どちらの視点も共存できるじゃありませんか。
矛盾してるはずなのに、衝突はしない。
するとふたつの視点の妥協点みたいなところを、お互いに擦り合わせることができるようになります。
できるようになるまで、ふたつの矛盾が悲しくて苦しくて、泣いて悶えて発狂するほどすべてを呪いたくなりましたが、まあ、うん。
今となってはそれも必要な道のりでした。(とか言ってるけど、じゃあまたもう一回アレやれって言われたら、やだ!!!きついもん!!!笑)
たまに、この感覚を忘れないために確認テストのように、人間視点と俯瞰視点が矛盾する事態がやってきます。そのたびに「あーーーー泣」って初心に返ります。あーーーーー泣
俯瞰視点と人間視点の行ったり来たり
行ったり来たりの生活が慣れない頃はえげつない孤独感で苦しみましたが、
大丈夫!慣れますので!ゆーて1、2年くらいやってりゃ慣れます!
今まさに視点の往復生活が始まって大変な方は、どうぞご安心ください。慣れます!
次第に「あ、またか笑」「はいはい、いつものね」って感じになります。苦しみはそこまで長くは続きません。自分の意思で行き来できるようになってくると「いや?一周回って便利でさえあるぞ?」くらいにはなれるはず。
もしどおおおおしても視点の往復で孤独感が強くて悲しいときは『ツァラトゥストラ』(作、ニーチェ)を読むのがおすすめです。チャネリング系ツンデレお兄さんツァラトゥストラが、お友達の蛇と鷹と一緒に、高次と対話しながら孤独と寂しさと発見の日々を歌って踊って語っています。
読んでみてね!
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